資料・記録など

2018.02.15更新

資料1・最首さんの書いたもの

(順次掲載/発表年次順)

石牟礼さん さようなら(2018)

2018年2月10日、石牟礼道子さんが逝去されました。最首塾はもともと水俣に心向かわせる者たちが集まり、水俣の資料を整理し始めたところに出自があります。その際に出していたミニコミ誌のタイトルは「動かぬ海」(1986)でした。これは石牟礼さんの「海はまだ光り」から取った言葉です。そうしたこれまでの経緯をふくめ、最首悟さんに一文をお願いしました。

FHS構想とは

カプカプパンフレットより転載。生身の人間同士がつながることのできる、協同の親しい場に向けての最首さんの構想。

2度と国による戦力は用いない――憲法9条をノーベル賞に(2014)

「憲法9条にノーベル平和賞を」という署名運動が進められています。すでに署名数は10万人を超え、ノルウェーの委員会も推薦を受理しました(2014.6.29)。こちらに最首悟さんも推薦文を寄せられております。解釈改憲が一内閣の一存で進められ、立憲主義の根幹が打ち崩されようとしています。賛同署名は次のURL先でできます!→http://chn.ge/1i0bHPi

学問と未来(2012)

2011年5月26日(木)に和光大学で開催された「緊急ティーチイン@和光:震災・原発を考える」(第二回)の講演記録。和光大学総合文化研究所年報『東西南北2012』所収された。当日の様子についてはUstreamにて鑑賞できる。

いのちへの作法(2011)

2011年7月18日に開催された「改定臓器移植法施行から一年を振り返る 少年自殺者からの臓器摘出は許されるのか?」と題する市民の集いでの講演録。「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」のホームページに掲載されているものを転載。

病いから<いのち>が見えてくる(2011)

『同朋新聞』2011年2月第639号に掲載されたインタビュー。東本願寺主催の公開講演会・シンポジウム「人間といういのちの相―生老病死―」(2011年4月14日第3回)に先立ち、このインタビューが掲載された。「否」といえない「痞」という病いを現代社会に暮らす私たち誰もがもちながらも、にもかかわらず、それでも募る疾しさを捉えようとする。そして、出発点としての「いのちはいのち」を提起する。

三宅勝久『自衛隊という密室』(高文研2009)推薦文 (2009)

ジャーナリストの三好勝久さんのご本『自衛隊という密室』に最首さんが寄せられた推薦文。この本について渡辺容子さんが詳しい書評を書かれている。
 →渡辺容子「『自衛隊という密室』の感想」(2009/10/01)

ひとり芝居「天の魚」(丸木美術館公演) (2009)

ひとり芝居「天の魚」は東大駒場での公演を経て複数個所で公演することが決まった。この文章は「原爆の図 丸木美術館」での2009年11月7日の公演チラシに最首さんが寄稿されたもの。『明日もまた今日のごとく』の「HIROSHIMA・NAGASAKI・MINAMATA 」を参照するとよい。

→ 公演チラシ

「天の魚」 (2009)

月刊「遊歩人」2009年6月号所収。下は公演パンフ用のあいさつ文だったのに対して、こちらは観劇後の劇評。「次第に大きくあいた口から〈いのち〉が噴き出されてくる ようであ(る)」ということを最首さんは公演期間中からしばしばおっしゃっていた。やはり一般教育が強調されている。

「水俣」から「駒場」へ <いのち>に問われる「一般教育」の追求 (2009)

東京大学駒場キャンパスで2009年5月13日から15日にかけてひとり芝居「天の魚」が公演された。この文章はその際に配布されたパンフ「動かぬ海 一人芝居「天の魚」東大駒場2009年公演号」(2009年5月)に掲載されたあいさつ文。最首さんが子の公演の企画・運営代表を務めた。

追悼土本典昭 自らを未党派と名付ける(2008)

『週刊読書人』(通巻・第2746号 2008年7月11日号8面)に掲載された映画監督土本典昭さんの追悼文。土本さんは2008年6月24日に御逝去されました。

みんな一緒に(2008)

『実践障害児教育』2008年7月号(学研)の巻頭提言。

あねさん、あねさん(2007)

月刊PR誌「未来」2007年9月号(No.492)に掲載された文章。2007年秋に東京船堀で俳優川島宏知によって復活された一人芝居「天の魚」の紹介文。

包摂としての《?》(2007)

「滝沢克己協会」総会(2007年6月16日文京区シビックセンター)での講演をリライト。山本義隆・滝沢克己往復書簡と自身の足跡をもとに「問学」の有り様を考える。

星子をかばって生きる(2007)

2007年7月7日、(財)大竹財団、賑栄い塾主催で最首悟さんの講演会が開かれました。こちらはその講演録です。

 参考→ チラシ

弔辞小坂修平くんへ(2007)

在野の哲学者で評論家の小阪修平さんが2007年9月10日にお亡くなりになりました。小阪さんを偲ぶ会が同月27日に虎ノ門で開かれましたが、最首悟さんが弔辞を送られております。こちらに転載致します。

NHK教育テレビ 視点・論点 「全共闘と価値紊乱」04.8.17放送

人はどうしようもなく違うから連帯を求め、絆を結びたいのだ。この風土では普遍性という保証がないから、人間関係は細やかになる。

今 水俣について思うとき (2004)

「ごんずい」81号 2004年3月 掲載
特集:水俣病センター相思社30周年

シモーヌ・ヴェイユ著『ヴェイユの言葉』を読む(2004)

図書新聞 2004年6月12日 掲載
シモーヌ・ヴェイユ著『ヴェイユの言葉』を読む エロスの透明性、透き通った「いのち」
ヴェイユをまた読み、やっぱり立ち止まる

書評 山本義隆著、『磁力と重力の発見』(みすず書房、2003)(2004)

図書新聞2661号 2004年1月17日 掲載
−この膨大な手がかりは日本の何を焙り出したのか−素人は免許をもたない。しかし素人はただの人であろうか。

能「不知火」奉納水俣公演に寄せて(2004)

朝日新聞(夕刊)2004年6月5日 関西版 掲載
本源から発せられる光。すべてが病んでいる中で。

蛇から竜へ……(2004)

「遊歩人」2004.4月号 所収

「書評 山本義隆『磁力と重力の発見』を読む」(2004)

和光大学人間関係学部紀要・第8号第一分冊
現代社会関係研究2003 所収

「この膨大な手がかりは日本の何を焙り出したのか」、書評 山本義隆『磁力と重力の発見』(2004)

図書新聞2661号 2004年1月17日 掲載

事実に強くて弱い人間を育てる(2003)

「事実」に対する二様の態度について論じた短文。『教育評論』2003年3月号所収。

義務の自発性を「わたし」の中に掘る(2002)

『悪人礼賛』はじめ中野好夫の論をひいて「わたしたち」の「民主主義」を問う。『教育評論』2002年12月号所収。

<いのち>のひびきあい(2002)

緒方正人「チッソは私であった」(葦書房)の書評。「図書新聞」2002年2月23日号に掲載。

そばに居ることから(2001)

『人権読本』(鎌田 慧編著、岩波ジュニア新書、2001)所収の論文。情に生きること。「それは少なくとも、人を指して役立たずとか、穀つぶしだとか、生きている意味がないなどと言わない生き方である」。

ゆっくり ゆるむ ゆったり ゆるぐ・・・・(2000)

「教育」ひいては「こどもとかかわる大人の責任」を巡る小文。前記論文からつながるところがある。
新しく教員になった人々へ向けたメッセージとして「教育評論」2000年4月号所収。

「ただの人」であるということ(1998)

週刊朝日「私の読書生活」に書かれたもの。冒頭の「娘天音妻ヒロミ」評は短いながら要注目。

「和解」の異常さ(1996)

水俣病40年めの「和解」にあらわれた、日本社会・政治の「異常さ」を論じる。アサフグラフ(1996年9月)に掲載。

教育における自立と依存(1996)

「倚愛」という概念を軸に、「自立」と「依存」を検証する。岩波講座・現代社会学第12巻「こどもと教育の社会学」所収。

政府解決案をめぐって(1995)

下記和解に至る政府解決案について、主に医学と行政の関わりという側面から論じる。「週間金曜日」(1995.10.27)に掲載。

権利は天然自然のものか(1994)

「内発的義務」という考え方についてのイントロダクション的文章。「義務と権利」の題名で『星子が居る』(1998年世織書房)に所収。

共同性へのシンボル(1994)

水俣湾埋め立て地に置くことが提起された「お地蔵さん」をめぐり、支援運動を「共同性」という視点から論じた小文。「動かぬ海」1994年所収。

「動かぬ海」は、最首さんと共に水俣病関係の資料を整理したり読み込んできた「不知火グループ」が1986年から年1回出してきた小冊子。1995年版(出たのは1998年)以降は発刊されていない。

ケア概念の再構築へ向けて〜ターミナルケアの起源への一考察〜(1994)

「ケア」と「世話」の懸隔と、日本における「ターミナル・ケア」概念の困難について論じる。『ターミナルケア』Vol.4,No.2所収

書評「アイデンティティと共生の哲学」(1993)

花崎皐平氏の著書を、「無力なるもの」にヒトはどのように対するか?という問題設定から論じ、さらに「希望」に疑問符をつける。「情況」1993年10月号所収。

書評「福祉の国のアリス」(1993)

1990年、環境庁長官の水俣入りの日に自死した環境庁企画調整局長(当時)山内豊徳氏の遺稿集の書評。行政の責任について簡略にまとめている。「週間読書人」1993年3月22日号掲載。

水俣の痛み(1992)

身体的痛みにとどまらない、重層的な水俣の「痛み」、それを拡大していく「学問の壁」について論じる。山田宗睦編『人間の痛み』(風人社)所収。

ふらふらのアマチュア(1992)

水俣病問題とも関わる「学問」の構造の問題、そして「わたしたちはごちゃごちゃといろんな人が混じって暮す場や学校を、自分たちで造り出す必要がある」という方向性を概観した文章。「動かぬ海」1992年所収。

責任をとるということ(1991)

水俣病関西訴訟での、伊藤蓮雄(水俣病発生-拡大当時の水俣保健所長、後に県衛生部長)証言をめぐり、「責任」が曖昧化されていく構造を論じる。「動かぬ海」1991年所収。

参考資料「覚えていない」ことの持つ意味

学問は地球を滅ぼす(1988)

東大の大学院大学化-教養学部の解体再編の流れの中で教官人事を巡って起きた論議に関連して書かれたもの。「東京大学新聞」の「教養学部を考える」というシリーズの第4弾として掲載された。内容は「学問」論である。最首塾のはじまりにつながるものとしてここに収録する。蛇足ながら東大新聞は学生が編集している新聞で大学報ではない。

熊本県南部の漁村・湯堂にみる環境破壊(1985)

湯堂を中心に、漁業被害をはじめとした水俣病被害に関してまとめたもの。講座差別と人権・第6巻『底辺社会』所収

市井論文への反論(1983)

『水俣の啓示 不知火海総合学術調査報告(上)』(筑摩書房、1983)所収の論文。同著に収められた市井三郎氏の論文「哲学的省察・公害と文明の逆説」への反論文。

不知火海海業の変遷―井川太二と女島巾着漁の事例―(1983)

『水俣の啓示(上)』(筑摩書房、1983)所収の論文「不知火海漁業の移り変わり」は枚数の関係で上掲の論文を縮小したものでした。この論文には本来、多数の図表がつきますが、今回は割愛してあります。時機に図表を添付した完全版にします。

接点の凝視 ―序にかえて―
 東大全学助手共闘会議 最首悟(1969)

最首悟(著)、『山本義隆潜行記』、講談社、1969(昭和44).12.8 第一刷 発行

茅野寛志くんへ 怒り・執念・焦燥・絶望 (1969)

『アサヒグラフ』朝日新聞社19690620号、6・15特集「6・15 死者との対話」に掲載。「自分でやっていることに自分が驚く、そのような人間というもの」をいかに私たちはつかむのか。

闘いのエネルギーを(1969)

所美都子『わが愛と叛逆 遺稿■ある東大女子学生と―青春の群像』1969年3月号の序文。

それでも壁をたたきつづけねばならぬ 山崎修太君推薦のことばとして(1962)

1962年、大正行動隊に行っていた山崎修太さんが駒場自治会委員長に立候補した際に最首さんが書いた選挙ビラ。


資料2・対談

(順次掲載・注釈は管理人による)

和光大学人間関係学科ホームページに掲載されているインタビュー(リンク元は既削除)(2004)

一般学は専門学を統合する上位の学問である。その一般学を学ぶ場としての大学。現在の最首さんの活動の一端を知ることができるインタビュー。

半田たつ子氏によるインタビュー(1989?)

「We」に掲載。「内発的義務」や教育の問題など、現在につながる話題が多数。1989年のものと思われるが今のところ詳細不明。ご存知の方はご一報下さい。

ボランテイアをどんなふうに考える?(1999)

杉浦光子氏によるインタビュー。日本ボランティア学会1999年度学会誌に掲載。



資料3・講演

(順次掲載・注釈は管理人による)

水俣の課題(2002)

恵泉女学園大学での講演。水俣病問題の現在的な意味を考える。

「まるごと」 (2001)

予備校教師の会のシンポジウム「教育を考える」での発言。

リカーシヴな私(1991)

河合ブックレット「半生(はんなま)の思想」より抜粋。「私が私であること」の循環を語る。もともとは河合塾名古屋校での講演。

全文を読みたい方は河合ブックレット21「半生の思想」(河合文化教育研究所・定価税込み520円)をご覧ください。

ちがうこと・おなじこと(2000)

北星学園新札幌高校の「憲法を学ぶ会」での講演記録。「自由」「平等」という概念と「人間の尊厳」について語る。

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