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資料・記録など 2023.01.22更新 |
資料1・最首さんの書いたもの (順次掲載/発表年次順) *最首悟さんからの手紙 序列をこえた社会に向けて(2018〜) 最首悟さんは2018年7月13日から月に一度、植松聖氏に宛てた手紙を書かれています。この手紙は神奈川新聞のウェブサイトに掲載されており、2022年9月に51回目を迎えました。 *石牟礼さん さようなら(2018) 2018年2月10日、石牟礼道子さんが逝去されました。最首塾はもともと水俣に心向かわせる者たちが集まり、水俣の資料を整理し始めたところに出自があります。その際に出していたミニコミ誌のタイトルは「動かぬ海」(1986)でした。これは石牟礼さんの「海はまだ光り」から取った言葉です。そうしたこれまでの経緯をふくめ、最首悟さんに一文をお願いしました。 カプカプパンフレットより転載。生身の人間同士がつながることのできる、協同の親しい場に向けての最首さんの構想。 *2度と国による戦力は用いない――憲法9条をノーベル賞に(2014) 「憲法9条にノーベル平和賞を」という署名運動が進められています。すでに署名数は10万人を超え、ノルウェーの委員会も推薦を受理しました(2014.6.29)。こちらに最首悟さんも推薦文を寄せられております。解釈改憲が一内閣の一存で進められ、立憲主義の根幹が打ち崩されようとしています。賛同署名は次のURL先でできます!→http://chn.ge/1i0bHPi *学問と未来(2012) 2011年5月26日(木)に和光大学で開催された「緊急ティーチイン@和光:震災・原発を考える」(第二回)の講演記録。和光大学総合文化研究所年報『東西南北2012』所収された。当日の様子についてはUstreamにて鑑賞できる。 *いのちへの作法(2011) 2011年7月18日に開催された「改定臓器移植法施行から一年を振り返る 少年自殺者からの臓器摘出は許されるのか?」と題する市民の集いでの講演録。「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」のホームページに掲載されているものを転載。 *病いから<いのち>が見えてくる(2011) 『同朋新聞』2011年2月第639号に掲載されたインタビュー。東本願寺主催の公開講演会・シンポジウム「人間といういのちの相―生老病死―」(2011年4月14日第3回)に先立ち、このインタビューが掲載された。「否」といえない「痞」という病いを現代社会に暮らす私たち誰もがもちながらも、にもかかわらず、それでも募る疾しさを捉えようとする。そして、出発点としての「いのちはいのち」を提起する。 *三宅勝久『自衛隊という密室』(高文研2009)推薦文 (2009) ジャーナリストの三好勝久さんのご本『自衛隊という密室』に最首さんが寄せられた推薦文。この本について渡辺容子さんが詳しい書評を書かれている。 *ひとり芝居「天の魚」(丸木美術館公演) (2009) ひとり芝居「天の魚」は東大駒場での公演を経て複数個所で公演することが決まった。この文章は「原爆の図 丸木美術館」での2009年11月7日の公演チラシに最首さんが寄稿されたもの。『明日もまた今日のごとく』の「HIROSHIMA・NAGASAKI・MINAMATA 」を参照するとよい。 *「天の魚」 (2009) 月刊「遊歩人」2009年6月号所収。下は公演パンフ用のあいさつ文だったのに対して、こちらは観劇後の劇評。「次第に大きくあいた口から〈いのち〉が噴き出されてくる ようであ(る)」ということを最首さんは公演期間中からしばしばおっしゃっていた。やはり一般教育が強調されている。 *「水俣」から「駒場」へ <いのち>に問われる「一般教育」の追求 (2009) 東京大学駒場キャンパスで2009年5月13日から15日にかけてひとり芝居「天の魚」が公演された。この文章はその際に配布されたパンフ「動かぬ海 一人芝居「天の魚」東大駒場2009年公演号」(2009年5月)に掲載されたあいさつ文。最首さんが子の公演の企画・運営代表を務めた。 *追悼土本典昭 自らを未党派と名付ける(2008) 『週刊読書人』(通巻・第2746号 2008年7月11日号8面)に掲載された映画監督土本典昭さんの追悼文。土本さんは2008年6月24日に御逝去されました。 *みんな一緒に(2008) 『実践障害児教育』2008年7月号(学研)の巻頭提言。 *あねさん、あねさん(2007) 月刊PR誌「未来」2007年9月号(No.492)に掲載された文章。2007年秋に東京船堀で俳優川島宏知によって復活された一人芝居「天の魚」の紹介文。 *包摂としての《?》(2007) 「滝沢克己協会」総会(2007年6月16日文京区シビックセンター)での講演をリライト。山本義隆・滝沢克己往復書簡と自身の足跡をもとに「問学」の有り様を考える。 *星子をかばって生きる(2007)
*弔辞小坂修平くんへ(2007) 在野の哲学者で評論家の小阪修平さんが2007年9月10日にお亡くなりになりました。小阪さんを偲ぶ会が同月27日に虎ノ門で開かれましたが、最首悟さんが弔辞を送られております。こちらに転載致します。 *NHK教育テレビ 視点・論点 「全共闘と価値紊乱」04.8.17放送 人はどうしようもなく違うから連帯を求め、絆を結びたいのだ。この風土では普遍性という保証がないから、人間関係は細やかになる。 *今 水俣について思うとき (2004) 「ごんずい」81号 2004年3月 掲載 *シモーヌ・ヴェイユ著『ヴェイユの言葉』を読む(2004) 図書新聞 2004年6月12日 掲載 *書評 山本義隆著、『磁力と重力の発見』(みすず書房、2003)(2004) 図書新聞2661号 2004年1月17日 掲載 *能「不知火」奉納水俣公演に寄せて(2004)
*蛇から竜へ……(2004)
*「書評 山本義隆『磁力と重力の発見』を読む」(2004)
*「この膨大な手がかりは日本の何を焙り出したのか」、書評 山本義隆『磁力と重力の発見』(2004)
*事実に強くて弱い人間を育てる(2003)
*義務の自発性を「わたし」の中に掘る(2002)
*<いのち>のひびきあい(2002)
*そばに居ることから(2001) 『人権読本』(鎌田 慧編著、岩波ジュニア新書、2001)所収の論文。情に生きること。「それは少なくとも、人を指して役立たずとか、穀つぶしだとか、生きている意味がないなどと言わない生き方である」。 *ゆっくり ゆるむ ゆったり ゆるぐ・・・・(2000)
*「ただの人」であるということ(1998)
*「和解」の異常さ(1996)
*教育における自立と依存(1996)
*政府解決案をめぐって(1995)
*権利は天然自然のものか(1994)
*共同性へのシンボル(1994)
*ケア概念の再構築へ向けて〜ターミナルケアの起源への一考察〜(1994)
*書評「アイデンティティと共生の哲学」(1993)
*書評「福祉の国のアリス」(1993)
*水俣の痛み(1992)
*ふらふらのアマチュア(1992)
*責任をとるということ(1991)
*学問は地球を滅ぼす(1988)
*熊本県南部の漁村・湯堂にみる環境破壊(1985)
*市井論文への反論(1983) 『水俣の啓示 不知火海総合学術調査報告(上)』(筑摩書房、1983)所収の論文。同著に収められた市井三郎氏の論文「哲学的省察・公害と文明の逆説」への反論文。 *不知火海海業の変遷―井川太二と女島巾着漁の事例―(1983) 『水俣の啓示(上)』(筑摩書房、1983)所収の論文「不知火海漁業の移り変わり」は枚数の関係で上掲の論文を縮小したものでした。この論文には本来、多数の図表がつきますが、今回は割愛してあります。時機に図表を添付した完全版にします。 *接点の凝視 ―序にかえて―
最首悟(著)、『山本義隆潜行記』、講談社、1969(昭和44).12.8 第一刷 発行 *茅野寛志くんへ 怒り・執念・焦燥・絶望 (1969) 『アサヒグラフ』朝日新聞社19690620号、6・15特集「6・15 死者との対話」に掲載。「自分でやっていることに自分が驚く、そのような人間というもの」をいかに私たちはつかむのか。 *闘いのエネルギーを(1969) 所美都子『わが愛と叛逆 遺稿■ある東大女子学生と―青春の群像』1969年3月号の序文。 *それでも壁をたたきつづけねばならぬ 山崎修太君推薦のことばとして(1962) 1962年、大正行動隊に行っていた山崎修太さんが駒場自治会委員長に立候補した際に最首さんが書いた選挙ビラ。 |
資料2・対談 (順次掲載・注釈は管理人による) *和光大学人間関係学科ホームページに掲載されているインタビュー(リンク元は既削除)(2004)
*半田たつ子氏によるインタビュー(1989?)
*ボランテイアをどんなふうに考える?(1999)
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資料3・講演 (順次掲載・注釈は管理人による) *水俣の課題(2002)
*「まるごと」 (2001)
*リカーシヴな私(1991)
*ちがうこと・おなじこと(2000)
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